アメリカ経済の礎。ミシシッピ川の歴史と街

アメリカ経済の礎、ミシシッピ川の歴史と街


ミシシッピ川の全長は3,779km、アメリカ合衆国で最も長い川で、北アメリカ大陸を流れる河川の一つです。アメリカ合衆国・ミネソタ州を源流にメキシコ湾へ注いでいます。ここでは、アメリカ経済を助けたミシシッピ川の歴史を説明します。

歴史

西暦800年頃、ミシシッピ河川ではミシシッピ文化と呼ばれるインディアン文化が広まりました。この文化は住居などを建設するために、積み上げた人工の丘を構築するのが特徴で、とうもろこしの栽培を主流としていました。この文化の中でも一番有名な遺跡がセントルイス近郊にあるカホキアです。12~13世紀にかけて栄えており、最盛期の人工は約1万人に達していたと言われています。

ヨーロッパ人の探検と始まり

ミシシッピ川に到達した最初のヨーロッパ人は、スペイン人のコンキスタドール「エルナンド・デ・ソト」とされています。1541年5月8日、彼はミシシッピ川に到達し、ミシシッピ川下流域を探検しますが、1542年5月21日、エルナンド・デ・ソトはミシシッピ川のほとりで亡くなります。生き残った隊員たちはミシシッピ川を下り、メキシコ湾に出てスペイン領にたどり着きます。しかし、彼らが持ち込んだ伝染病によって、ミシシッピ文化の多くの首長制国家を崩壊させ、人口も非常に減少しました。

エルナンド・デ・ソト探検隊の後、100年以上ミシシッピ川流域にヨーロッパ人はほとんど来ませんでした。次にこの流域に現れたのは、ミシガン湖など北の五大湖水系を制覇したフランス人でした。1673年、ルイ・ジョリエが五大湖からミシシッピ川に到達、ミシシッピ川とアーカンザス川の合流地点まで到達してから引き返します。そして、1682年4月9日、ロベール=カブリエ・ド・ラ・サールがミシシッピ川を下り、メキシコ湾に到達したことをきっかけに、北アメリカ大陸中央部を南北に貫く幹線水路が開通しました。このように、五大湖水系とミシシッピ川水系が繋がり、フランスは広大な植民地を建設します。1718年、河口にニューオリンズの街が建設され、1722年にはフランス領ルイジアナの首都となります。ここは、ミシシッピ川交易とメキシコ湾海運の結節点として栄えました。
また、セントルイスなどフランス領時代に建設された拠点で、今も都市として残っている場所はミシシッピ川に点在しています。

1803年、アメリカがフランスからルイジアナを購入し、ミシシッピ川の両岸はアメリカ合衆国の領土になりました。ルイジアナを買収したことで、アメリカの領土2倍に、西方への道が開いたため、アメリカの西部開拓に拍車がかかります。ミシシッピ川両岸がアメリカ合衆国になると、沿岸には東部から続々と開拓者がやってきて、一定の開拓が進んだ土地は次々と州に昇格していきました。

ミシシッピ川を通した交易

ミシシッピ川は植民初期から輸送路として利用されましたが、利用が特に拡大したのは蒸気船の開発以降になります。ミシシッピ川水路の利用がしやすくなったことで、ミシシッピ川交易が本格化しました。開拓初期は早い段階から開拓の進んでいたオハイオ川流域とニューオリンズを繋ぐルートが主要でしたが、開拓が進んでいくに連れてミシシッピ川本流地域の交易も栄えました。西部は南部に作物を売った利益でアメリカ東部から工業製品を購入、東部は南部から綿花などを購入します。さらに、南部は西部から作物を購入するといったサイクルが出来上がったのです。ミシシッピ川はアメリカ経済の統一に大きな役割を果たしました。

おすすめの観光地-ニューオリンズ-

ニューオリンズはメキシコ湾に面した、ミシシッピ川の河口にある重要な港湾都市です。ここは、綿花などミシシッピ川流域の作物の輸出港として発展し、後に工業都市、観光都市としても発展した地です。

ミシシッピ川博物館

この博物館には、先住民の暮らしぶりや入植者による開拓などを紹介し展示を行っています。そして、博物館の外にはミシシッピ川のジオラマがあり、上流の細かい支流から河口付近の湿原まで復元されています。

まとめ

ミシシッピ川はアメリカ経済を繁栄させた、歴史を語るには外せない存在です。ミシシッピ川を堪能するならクルーズがおすすめです。プランによって、ジャズの生演奏があるので、演奏に耳を傾けながらゆったりと川の流れに身を委ねてみてはいかがですか?

参考
ja.wikipedia.org

The following two tabs change content below.
川沿いの街をめぐるためのガイドブック

川沿いの街をめぐるためのガイドブック

豊かな水を人々へ運ぶ世界中の川と周辺の街情報を集めてみました。